昭和46年11月6日 朝の御理解


御理解第50節 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ」


 地を肥やすということ、信心でいう地を肥やすということ。「ひとりでに物ができるような」とおっしゃる。言わば、願わんでも、頼まんでも、おかげを下さる。そういうおかげを頂くと。「神様、どうぞどうぞ」と言うてお願いする。それは、お願いせんならんことも随分ございますけども、願わんでも神様はおかげを下さるということが、ひとりでに物ができるようなものだということ。「とかく、信心は地を肥やせ」いわゆる、地を肥やすことによって、ひとりでに物ができるようなおかげが頂かれると。地を肥やすということは、どのようなことであろうか、お互いそういう信心を頂きたい。
 そして、そう願わんでも、頼まんでもひとりでに物ができるようにおかげ頂きたい。信心しておっても、いや何十年信心しておっても、やはり、がつがつとしたおかげ、言うなら、ひとりでに物ができるようなおかげではなくて、頼んで頼んで、頼みぬかねばおかげにならんといったような人が随分ございますね。信心しておりましても、ひとりでにおかげを頂くという人は非常に少ない。
 そこで例えば、地を肥やすということは、一生懸命にお参りをすることだけではないことがわかりますね。何十年間信心し続けておってもやはり、おかげはがつがつであるとするならば、地を肥やすということは、何十年間日参りを続けております、お参りさせて頂いております、ということではないことがわかる。
 それなら、一生懸命御用をさして貰ったり、お供えでもどんどんさせて貰ったり、それが果たして根肥やしになるだろうか。それがひとりでに物ができるような。成程、どんどんお供えしよる時にはおかげ頂いたけど、お供えを止めたら、御用を止めたらおかげの方もピッタリと止まったというようなことではつまらんでしょうが。
 随分、私どもはそういう人を知ってますよ。それはもう本当に素晴らしい御用のできる人達が。ある教会の総代さんをしとられた。以前はそうでもなかったのですけど、その当時ですから十年ばかり前のこと、もうそれこそ大変な御用ができておられた。各教会からは、それこそあっちこっちからお話にきてくれ、お話にきてくれというて、手続き関係の沢山ある教会ですから、そこんところにお話に、他所の手続きのところにまで、お話にいかれる。まわられるような状態。
 やはりあれは不思議ですね。信者さんで御用のできる方のお話を信者に聞かせたいということは、どこに根本があるかということですよ。あそこの教会のあの人は大変な御用ができる。だからその人の話を信者に聞かせようというのは、どうも根性が善くないですね。うちの教会にも、どんどん御用のできる信者を作らせようというのか、教会長である先生の願いがそういうところにあって、そういう話を聞かせよう、それで信心をわからせようとする。これはもう駄目ですね。御用することが悪いことではない。
 三井教会にも話にみえましたがね。それこそもう、おかげを受けておるときには、そんなもんでしょうけれどもね。皆に言いよんなさる。「あなたがたは、金光様の信心するようになってから、段々おかげを受けよんなさるが、お供えはいくらしよんなさるですか」と、てんからそういう行き方でしたね。「百円お供えしよります。翌る年は百円、その翌る年はやっぱり百円です。それなら一ちょん信心は育ちよらんじゃないですか。おかげは頂きよらんじゃないですか。百円のお供えができたら、翌る年は二百円のお供えができるようになったというおかげを頂かにゃ。今年二百円のお供えができよったなら、四百円のお供えを頂かにゃ、一ちょんおかげ頂いとることにならんじゃないですか。私達はそういうおかげを頂いて、現在はこういうおかげを頂いとる」という話ですから、まあそういうことを願いとしてらっしゃる方は拍手喝采ですね、やはり。
 ところが、人間というものは慢心が出たり致しますから、それからもう間もなくでしたね。その方の事業のことが思わしくなくて、最近は参りござるじゃろうかというくらいですね。それだけ、去年百円お供えしござったのが、今年は二百円というような調子でおかげを頂くということは、どんどん根肥やしができとる。肥料をしよんなさるとではないことがわかりますね。そげなことじゃないですよね、金光様の御信心は。
 御用すりゃ助かるということも、あれは本当に純粋な心で、どんどん御用する時、それはおかげ頂くんですね。純粋なものですから。それは百円のものより、二百円の方が確かにおかげ頂くです。けれども、俺がこれだけのことができよると、人にども、例えばおかげの一つもさして頂くような頃から、おかげを頂かんようになります。
 ですから、根肥やしということは、そういうことじゃない。一生懸命お参りしておる、何十年信心が続いていることでもない。「ひとりでに物ができる」という、ひとりでに物ができるおかげというのは、常日頃に根肥やしができておるから。それを只、がつがつと肥料を施さずに「おかげ、おかげ」というておかげばかり、いわば収穫の上だけのおかげ頂きよるから、地が痩せてしまうね。そういうことになりましょうが。

 私は今日、五十節を頂くにあたってね、どういうことが地を肥やすことになるであろうか、どういうような信心をさせて頂いたら、ひとりでに物ができるようなおかげになってくるのであろうか。願わんでも頼まんでも、神様が先回りをしておかげを下さるといったようなおかげになってくるのであろうかと思うておりましたら、「金光大神御理解」これは最近できました。金光大神の御理解の中から抜粋して、御本部から発表されました御理解がある。そこのところを頂くのです。読んでみましょう。
 「私は、はじめから臼をひいていると、神様が踊れとおっしゃるから踊る。歌えとおっしゃるから歌う。また、麦を干しておっても天気なのに、雨が降るから入れいとおっしゃると入れる。そうするとザッと降ってきおった。何でも信心は神様のことを疑わんで、馬鹿になってしなされ」とある。
 「ははあ、こういうようなことが、地を肥やすことになるのだな」と、今日改めてわからせて頂いたです。そして私自身の信心を思うてみる「ははあ、私の場合はそういう行き方で、地を肥やして頂いておったから、今日このようにおかげを受けておる。例えば、願わんでも頼まんでもひとりでに物ができるようなおかげを頂いておるんだな」ということを、私は今日改めて思い知らされた。
 そこで皆さんにも、そういう信心をして頂きたい。ひとりでに物のできるようなおかげを頂いて頂きたいと思うておるわけであります。一生懸命参ったから、御用が一生懸命できたからというようなことで地が肥えるというようなことでない。それなら、お参りを一つもせんで、お供えを一つもせんで、そして神様の仰せどおりにしておるというのでは、あまりの信心、そういう人がありますよ。
 お参りはせん、お供えやらはせん、時々参ってくる。親先生のおかげで信心がわかるという。仲々、成程おかげ頂いとる。けれどもそれでは決してひとりでに物ができるおかげにはならないです。それもできぬなら。それも、そう、お参りしなければおられんのであり、御用をさせてもらわなければおられんのであるという信心、それは私の過去の信心を皆さんが聞いて下されば一番わかる。
 そのことも一生懸命できさせて頂いた。私なりにできる。させて頂いた。そして、その上にです、教祖様がおっしゃっておられます。「唐臼を引いておると、神様が歌えとおっしゃる。だから歌った。踊れとおっしゃるから踊った。こんなに良いお天気だからと思うて麦を干しよると、麦はもう取り込んでしまえとおっしゃるから、取り込まして頂くとザーッとにわか雨でしょうね。が降るようなことがあった」というておられます。
 だから、信心はどこまでもです、理屈じゃないです。「自分の理屈に合わなければ、それを実行しない。神様のことを疑わんで馬鹿になってしなされ」とある。
 神様が「今日は、高下駄(たかぼくり)を履いて行け」とおっしゃる。それはおかしいですよね。こげな良か天気に高下駄をはいて、そして傘を持っていけと。はじめなら私もおかしかった。けれども、段々それがわかってきた。近所の人が「今日は大坪さんが傘持って高下駄はいていきござるけん。今日また雨が降るじゃろう」というぐらいだった。
 ここに例えば、歌えとか踊れとかおっしゃる。まあそれよりも、もっともっとひどいことがございましたですね。おそらく教祖様の場合だって同じです。そんな馬鹿なこと、それこそ脇から見よったら気違いざたかも知れません。前の日に竹薮を全部切らせておいて「明日はそこに、さあ登って駆けるけよ。走って登れ、走って下れ」というようなことをおっしゃっておられる。竹を切った後を登ったり走ったりする。「そげなことが出来ますもんか」とは教祖はおっしゃってないです。
 私は北野の教会にお話に参りましたときに、もう遅うございました。大城から電車に乗らせてもらおうと思っていったところが、それが真の闇夜でした。そしたら、もう電車がもうなくなっておったかどうか、その辺は失念しましたけれども、大城から一筋街道ですからね、北野まで。あそこ、電車のレールの、あの電車道の上を通って北野へ行けと、電車の停まるところのほんの裏にありますから、北野の教会の裏に出るわけです。
 ですから、私は枕木の上をこうやって真暗ですからね。懐中電気も持たん。そしたら神様から「急げ」とおっしゃる「走れ」とおっしゃるから、急いだり走ったりして北野へ着いた。私は、翌る日に北野から大城に電車で帰って来るときに、もうびっくりしたです。というのはね、大城と北野の間にはね。大きなちゅうか、ちょっとした川があるのですよ、その上に電車が走っとる。
 ですから、一つ間違うとったら、足をそこの中に落として、それこそ足を折っとったり怪我しとったじゃろうと思いました。走れとおっしゃるから走ったが、丁度枕木の上を飛んでおったことがわかるです。とても知っておるなら出来ることじゃありませんです。
 例えばそういうことがあるということは。あの、大和さんの妹さんが嫁入しておられました。そこの御主人達兄弟が夜釣りにそこのレールの上でしよって、二人とも引かれて亡くなられた、ということがあります、そこです。逃げようがない、電車が来たら。そこは川ですから、私はもう逃げようが有る無しじゃないですけれども、とにかくようあいとりましょうが、川が見えよります枕木の上を、こうやって、まあようこれだけ長いところを走っていった。よう足がそこに挟まらじゃったと思って、もう翌る日、例えば走れとおっしゃったっちゃ出来ることじゃないです。
 只、神様が急げとおっしゃるから急いだ、走れとおしゃるから走った。走れとおっしゃるけん只走っただけです。そして翌日帰ってくるときに、そこんところを見てから、もう愕然とするごとある。しかし、神様のおっしゃる通りに疑わずにすれば、こういうおかげを受けられるということがわかります。けれども、私どもの神経がですね、神様がそうおっしゃっても知っておると、やはりひょっとしてとかいう心が出るから危ないわけですけどね。まあ、そういう例えは、いくらもありました。
 もう本当に便所に行きたいと思ったら「女子便所の扉を開けよ」とおっしゃった。本当にね、ちょっとどげん考えたっちゃですよ。人が沢山おるとですからね。いうならば、本当に気違いじゃろうかというようなこともございますけれどもです。疑わずに、神様がそうせよとおっしゃるからする。
 皆さんの場合でもそうでしょう。こうして御理解を頂かれて、御教えを行ずるということは勿論ですけれども、時には理不尽な、どうも右が良いと思うけれども、神様が左にせよということがあるでしょうが。そういう時にです、疑わずに、おかげとかそういうものは問題にせずに、神様が言うて下さるから。いわゆる私の信心の、その当時の心情とでも申しましょうか。「とにかく人からは、笑われるかも知れません。けれども、神様からは、笑われてはならん」と言うのが私の身上でした。ですから出来た。
 教祖様も、そういうところを、おっしゃっておられる「はは、根肥やしになるとは、こういうことだな」と、私は今日改めて思わして頂いた。どんなに考えてもです、成程ひとりでにものが出来るようなおかげを頂きたい。「とかく信心は根を肥やせ」根を肥やすということはどういうことであろうか、一生懸命お参りすることじゃろうか、いや一生懸命御用しよったら、お供えさして頂くことが、地が肥えることだろうかと、一応思うて見るけれども、私どもの先輩とか、知っておる限りの、お参りも出来た、御用も出来よった方達がです。ひとりでにものが出来る段ではなくて、段々ものが出来なくなって、もう枯れた地に、それこそ不毛の地に種を播くような状態になって、信心までおしまいになっておるというような人が沢山あるということ。
 してみると、お参りとか御用をすることが、根を肥やすということではない。ここにも「馬鹿になりなされ」というておられるようにです。神様がおっしゃることには、それこそ馬鹿のようなことであっても「ハイ」というような素直な心です。そこにいわば、言
い訳をしない「神様。あなたが、ああおっしゃったからこう」ということを言わない。只神様が「高木履はいて行け」とおっしゃるから「傘を持って行け」とおっしゃるから傘を持って出るだけのことである。
 もう、今にも降りそうにあるから傘を持って行こうと思うと「いや、今日は傘はいらん」と神様がおっしゃる。いえ、神様今にも降りそうにありますから。「さあ、それでも傘はいらん」とおっしゃるから出らして頂くと、成程、雨が降ってくる。降ってくるけれども、後の一軒(間)後ろくらい降ってくるのですからね。それは不思議なことです。向うに着いたとたんジャーッと雨が降ると、雨がですね、私の一間くらい後ろのところを降ってくるのです、ずーっと歩くと。成程、神様が傘はいらんとおっしゃったはずです。
 というように「今にも降りそうにしているけん、傘持って行かんと人が笑いますよ」というようなことは言わずに、只そこにあるのは「よし、濡れても良い」ということなのです。

 教祖様に、例えば「生麦を入れろ」とおっしゃる。「そげなことしよりゃ、虫が付いてしまいますよ」と言いよりゃ人間の知恵なのです、人間の思いなのです。神様が仰せられるから、生麦を俵につめたとおっしゃる。そこには教祖の神様が、例え一年兵糧腐らしても、さらさらいとわないというのが、その内容におありになったのです。私はそう思います。「神様、あなたがそうおっしゃったからこうなった」とは、おっしゃるはずがない。
 私どもですらそうだったのですから、しかしそういう生き方こそ、そういう信心こそです。「地を肥やす」ということになるとするなら、一つ改めて地を肥やす信心を身につけなければいけないということがわかります。「親先生がそげなこと言いなさる」と言わずにです。「親先生がそげん言いなさるから、ハイ」と承っていくということだけのこと、そういう信心が繰返されていくうちにです。そういう信心がある意味合いでは、馬鹿であり阿呆になっていなければ出来るこっちゃない。
 成程、馬鹿と阿呆ということは、豊かな大きな心でということがわかります。自分たちの小さい知恵やら力で、ああであるの、こうであるのと決めこんでしまって、それこそ浮身をやつしている人達がありますけど、本当に考えてみると馬鹿のようです。私達から見ると。
 それより、それこそ人は馬鹿と言うてよいから阿呆と言うてもよいから、神様から笑われん。神様は右とおっしゃるから右、左とおっしゃるから左にならせて頂く心の状態にならせて頂くときに、いよいよ心は肥える。心は豊かになる。成程、地は肥えて行くのであります。ひとりでに物が出来るようなおかげ。そういう私は、おかげを頂くということがです、天地金乃神様の願いである。金光大神が身をもって表わされた信心とは、そういう信心をいうのだと思います。
 どうぞ。